こんばんは、さすけです。
今回は甲子園の
についての
エピソードになります。
これには諸説があるため
こんな説も有るんだと言う感じで
見て頂けると嬉しいです。

いつから?

昭和24年(第31回)の
夏の大会で、
一握りの土を
持って帰ったのが
1番最初と言われています。

最初の人物

福岡県の小倉北高校で
投手をしていた
福嶋一雄選手と
言われています。

キッカケ

これには、諸説有ります。
敗退後にマウンドに行き
土を持って帰った説と、
帰る途中に3塁側から
1塁側に移動する時に
持って帰ったと言う説も有ります。

色々な説があり

何となく始まって定着したため
これが始めと言うのが
確定出来ていません。

小倉北高校

昭和24年の大会は
小倉北高校の2連覇中で
3連覇のかかる大会でした。

注意:前2年優勝校が

昭和23年小倉高校優勝
昭和22年小倉中学
になってますが、
学制制度変更により
名称変更のために違う
違う名前になっています。
名前は違っても同じ学校です。

福嶋選手

2連覇を達成していたために
招待試合が多く組まれており
福嶋選手は登板過多になっていました。

そのため甲子園に出場する頃には

肘を痛めており
軽い物の持ち上げれない
状態での出場でした。

毎回ベンチに戻って来ると

治療して
また次の回に投げるような
まさに満身創痍でした。

小倉北高校 夏の大会

1回戦慶応高校線
13-2
2回戦長崎東高校戦
15-4
1・2回戦は
打線が好調で
圧勝しました。

3回戦倉敷工業戦

1・2回戦とは違い
接戦になりました。

8回終了時に

5-6と1点負け
状態で9回を迎えました。

9回表に

攻撃陣がなんとか1点を取り
同点のまま9回裏
迎える事となりました。

しかし福嶋選手も

限界が来ていて、
なんと無死満塁
ピンチを迎えてしまい
降板する事となりました。

しかしリリーフした

重台明彦選手が
なんとビックリする快投で
三者連続三振でピンチを
脱して延長戦に入って行きました。

この後は10回表に

無得点で10回裏を迎えました。

そこで1死満塁ピンチから

ショートゴロを
バックホームしたが
間に合わずに
サヨナラ負けで
敗退しています。

この後に福嶋選手

土を持って帰ったと
言われています。

こんなのも有るので良かったら見て下さい
高校野球の甲子園、名選手伝説6、番長、清原和博選手

甲子園の土

甲子園の土は
黒土と砂を
ミックスして使用しています。
黒土は日本国内で
調達しています。
採取する場所は
三重県・岡山県
鳥取・大分
鹿児島で採取しており
色々な所で調達しているようです。
砂は現在は中国から
輸入して使っています。

最後まで読んで頂きありがとうございました。

過去の歴史やあるあるネタなど色々あります。